■姓名学の歴史

 さて、このような姓名学の歴史について少し解説していきましょう。平安時代の嵯峨天皇の皇子、高崗親王の「新選姓氏録」が最初とされています。嵯峨天皇と言うと、空海が中国から持ち帰った密教占星術を国家安泰の術として嵯峨天皇にその内容を伝授し、その見返りに高野山を開城したことは良く知られています。嵯峨天皇の嵯峨という文字は、当時の中国の長安の郊外にある景勝地からとった名前です。その位、嵯峨天皇は大陸の先端の文化にあこがれていたということでしょう。このように、平安時代というのは、中国から最先端の学問や運命学が大量に導入されて発展した時期でもありますので、高崗親王の「新選姓氏録」も、中国の運命学(姓名学)の影響があったと推測されます。


 
■元服式と命名


 武家が活躍した室町時代には姓名学は、家学(その家に代々口伝として伝わる家法とされる学問)として活躍していたらしいのです。
元服する時に名前をつけるので、そういう観点から命名は重要だったとされています。姓名学で見落としてならないのは、日本の漢字は中国の漢字を輸入していることは事実ですが、”味付け”は大和言葉で行っているということです。
 つまり、同じ漢字でも中国と日本では意味合いが違うものが多数あるということです。漢字の部首から星を決定する中国の字形流(字源流)にしても、そのままの理論が日本では採用できない理由がここにあります。この武家が活躍した時代の姓名学には、画数という概念はありません。その「字」の持つ意味合いと、そこから連想される文字同士の気の流れ(通変星みたいなものです)を判断して、命名したわけです。

 

■命名と開運


 この武家時代の家学では「姓なるは意思あり」ということが言われておりましたが、一方で改名だけでは開運しないとも言われていました。改名と同時にもう一つ重要な要素があるのです。古文書には「破、滅、消、滅、臨、仁、義、転、承、生、浄、土。」と記載されていますが、これを実践することで初めて開運が可能だとされています。さて、この文字の並びをどのように解釈するでしょうか?ただの文字の羅列ですので、どのようにも解釈できますが、今までの罪と非を認め、その行いを滅すれば、新しく転じて浄土へと生まれ変わるという意味ではないでしょうか。すなわち、執着心やコダワリを捨て、新しい環境や変化に対応できる柔軟な思考を持つことが開運につながるという意味ではないでしょうか。

 

■江戸時代に画数理論が誕生


 さて、江戸時代後期に林文嶺という易者が活躍しました。江戸時代末期というと、丁度中国では、清朝に相当しますので、中国の運命学が頂点に達した頃です。林文嶺という人は、鹿島神社、香取神社(千葉県の霊的な双子のような神社で物部氏の武器庫としての役目が昔はあった)で、古書(明朝か清朝の文献か?)と出会い、その古書の内容を応用して、現在の姓名学へと発展したといわれています。一方、この林文嶺という人は人相や手相が得意だったらしく現在でも文献が手に入りますが、この人の霊的な直感力を体系化したのが永社(ながもり)鷹一という言語学者とされています。永社鷹一は、言葉の遊びが好きで色々な言葉を造語したりしていたらしいと聞いています。文字を画数へ数字化し、三才五行という体系化に成功した人はこの人が最初です。昭和初期に全国的に有名になった熊崎健翁氏は、自分から永社鷹一を訪問し、教えを請いに行ったとされています。

 本ソフトウエアは、こういった歴史を振り返り、最近一般書店に並んでいる流行の姓名学に惑わされず、日本に運命学が導入される前の元々の中国にあった古典的な姓名学に日本独自の大和言葉的な考えを融合させ、本来の姓名学を復興させることを目的に開発致しました。