占いというのは、非常に実用的なものです。つまり、実学です。ですから、占いを学んだ以上、お金がほしい人は、お金が多く入ってこなければ、占いではありません。結婚をしたい人は、結婚ができないと占いではありません。つまり、人間として、明らかに誤りではない欲求であれば、満たさないとなりません。
欲望を決して否定するものではありません。貧しい食事をしなさいということもありません。高級車に乗ってはいけないなんていうこともありません。美しい女性をみれば、傍においておきたいという欲望を否定するものでもありません。若い男性をみれば、傍においておきたいという中高年の女性の欲求を否定するものでもありません。
そういう、欲望が良いとか悪いとか、そんなことを裁判官のように、言うものではありません。すべての人の欲望を認め、それを、実現するためには、自分の天賦の能力や性格を正しく知り、欠点を知り、その上で、生き方を決定するための、ツールなのです。
ですから、キリスト教の信者で、なんでも、善と悪に区分しなければ、気がすまない癖のある方は、占いを学習しても、開運することは少ないのです。命式を審査した結果、かならず、その人にとって、喜ぶ神もあれば、忌む神もでてくるのが、占いだからです。
善も悪もまとめて、とりあつかい、区分せずに、つきあっていくという思想が根底にあるのが、占いです。こういう占いの考え方は、自然を神とするいわゆる、教祖がいない宗教を好む方には、ぴたりとマッチするものがあるはずです。
太陽や月、火星、水星、などの惑星をそれぞれ神の一部分として認め、自然災害も、美しい川も、氾濫する河も、火山の噴火、大地震、台風、竜巻、森林、山、海そういったすべてを神の一部として認める感性のそなわっている宗教が、占いとは、相性が良いのです。荒々しく身勝手で事業を強引にすすめる神も、和を尊び娯楽を求める神も、組織を平和に治める経営者としての神も、奇跡を起こす精神世界を支配する神も、すべてが神のパーツであり、どれが良いとかどれが悪いという判断をしないという感覚が重要なわけです。
この寛容性が、霊性の真髄であり、人格の中核であり、愛情の軸となっているわけです。
教祖を聖人化する宗教は、運命学とは相性があいません。運命学を学習していくと、聖人などは、いないことがよくわかります。100点満点の命式などありえないからです。みな、欠点もあり、欲望もあります。
違いは、そのなかでも、すべてを飲み込んで、欠点を克服し、長所を伸ばし、十種類の干(個性)、十種類の通変星(価値観)、をその人の個性として認める器を形成しているかどうかです。
つまり、サラサラとした人間関係をきずけるような人を、占いを極めた人といいます。感情的に、好き嫌いで、人を判断するようでは、占いを学習する意味がありません。
占いを学習すると、自分自身を設計している設計図がわかってきます。それが、神性です。その自分の神性にすなおにしたがって、行動していけるようになるので、迷いのない人が、占いを極めた人です。
ここまで書いていくと、占いを極めるためには、宇宙、大自然といった万物そのものを、神の作品として、そこから、すべてを学ぶことができるというスタイルの宗教が、占いと相性が良いということになります。
そういう宗教は、日本の古神道(神社神道ではありません)と、中国の道教、そして古ユダヤ教です。いづれも、教祖がいません。また、神様を神聖視しすぎることはありません。偉大な人であっても、それを聖人にはしません。
ユダヤの建国の王である、ダビデが他人の妻に恋愛し、奪い取った話しが旧約聖書には書かれています。
日本創世の神の1人であるスサノヲノミコトという神様も、罪をおかし天界を追放され、そのご改悛したので天界に復帰し、無事結婚したという記載があります。
古代中国の封神演儀という神様のものがたりも、破軍星という神様が、女と酒におぼれ国を滅ぼしてしまったという記載があります。神様も人間と同じで欲求があり、そういう間違いをするのですから、人も間違いだらけの人生をするはずという前提から、人生観からスタートしているのです。
このように書いてくると西洋の宗教はダメだということになりますが、古い時代の西洋の人生観を知るてがかりとして、アーサー王物語があります。これは、ケルト民族があみだした森の妖精、大自然の妖精を信じる考え方です。アイルランド、スコットランドなどでさかえた思想ですが、これなどは、日本の古神道の「かんながら」と同じだと考えても良いでしょう。そういう包容力がある宗教が、占いとは相性が良いのです。そして、もっとも包容力があるのが、日本の古神道だと思います。
祭り事と農業に対する妨害がもっとも重い罪とされていて、それ以外は非常に寛容です。現実の社会システムも、こんなにシンプルだったらと思います。
また、もっとも、包容力があるというのは、教義が文字として存在しない宗教です。つまり、生活のなかに溶け込んでいて、本を読めばわかるというものではない宗教です。あまりにも、包容力がありすぎて、何が古神道の教えなのか?と質問されれば、困るくらいです。
占いとは、人(ひと)を鑑定するものですが、ひと とは何でしょか?ひととは、大和言葉です。ヒフミヨイムナヤカトというのが1から10までの大和言葉ですが、ヒとは1。トとは10のことです。つまり、1から10が、ヒトということです。ヒトとは、1から10まで、いろいろなタイプがあり、そのどれもがヒトであり、良い悪いをいうのではありません。どれもが、神のパーツとして具現化したものです。
四柱推命でいうと、甲乙丙丁戊巳庚辛壬癸が1から10まであり、どれが良いとかどれが悪いということを言うのではありません。甲のヒトも、癸のヒトもぞれぞれ同じヒトであり、個性が異なるだけですから、性格が自分と合わないからといって、ヒトを非難するのは、神の10分の1の個性を非難するのと同じなのです。
銀河系は円の回転運動をしています。つまり、螺旋状です。太陽系も、円の回転運動です。人間の遺伝子であるDNA螺旋状です。このように、ミクロからマクロまでの運動すべてが円、螺旋状という法則があります。
運命学でも、木火土金水という五行が周遊するのが良いとされていますが、これはすなわち円の回転運動です。四柱推命では、この五行すべてをバランスよくもって生まれる人は、原理的にありえないので、ないものはあとから、後天的に努力して身につけるしかありません。この絶対バランスこそが、宇宙の根本的な原理であり、神の姿だということができます。
通変星でいうと、5種類の価値観を人間はもっています。比肩・劫財が第1グループ。食神・傷官が第2グループ。偏財・正財が第3グループ。偏官・正官が第4グループ。偏印・印綬が第5グループ。この5種類をバランスよく形成することが、人の道であり、生き方であり、占いを学習する目的だということがいえます。
占いでは、「良い」「悪い」という2分をするというのではなく、それをまるごと飲み込んで鑑定をするということを述べましたが、判断の基準がないわけではありません。
美しいか、美しくないか という基準、美醜で判断するわけです。四柱推命であれば、十干の気の流れがきれいであるか、それともきれいでないかで判断します。これがきれいな場合は、心の根の部分で、よこしまなことを考えない人だと判断します。また、他人の成功を、うらやましく思わず、苦労した分だけ成功したのだから当然のこととして認めることができます。この十干の流れがきれいでない人は、いたずらに他人と競争したがり、他人と自分とを比較したがり、勝つことを目標にしている方が多いようです。
十干の気の流れがきれいとは、壬丙、甲丁、庚甲、といったケースをいいます。十干の気の流れがきれいでないとは、壬己、丙丁、といたケースをいいます。
この気の流れがきれいだと、お金持ちになれるか?というとそういう法則はありません。気の流れがきれいでない場合でも、お金持ちはたくさんいます。
お金持ち、成功者といわれる本物は、もし命式の欠点であり、きれいでない部分があるのであれば、何度も失敗をすることで悟り、自分の努力や決意で、その部分を修復している方が多いのです。ですから、お会いしても、後味が良いのです。
お金持ちでも、株式公開で一夜にしてお金持ちになった成金の方の場合は、修復できていないケースが多いようです。ですから、お会いしても、後味がよくありません。
こういう仕事をしていると、霊能者、霊に関心のある人、宗教おたく、神社おたく、精神世界のおたく、いろいろな人と出会います。霊をおろして、神の言葉を語る人もいます。なんとか天皇をおろして、天皇の言葉を語る人もいます。でも、そういうのは、レベルが低いのです。単に、霊媒体質にすぎません。肉体の構造がそうなっているだけで、尊くもなんともありません。
本当に尊い霊感とは、経験で悟った内容からくる判断力です。つまり、体全体で感じる判断力です。この判断力は、苦労なくしては身につきません。また、もって生まれた能力を発揮するだけでは生まれません。もって生まれていない、欠けている能力を苦労して身に着けた人だけが、もっている判断力です。
経営者のなかには、霊媒師の言うことを信じる方が多いという現実があります。だれにも相談できないのが経営者です。わたくしも経営者ですから、どうしようもない孤独に陥ることがあることは、よく理解できますが、そういうときこそ、相談するのは自分の中に住んでいるはずの、神性にすべきなのです。ヘンチクリンな霊媒師に相談すべきではありません。それは、単に逃げているだけです。
日本では、古代より神霊をおろす人を、神主といいます。しかし、その神主はいつも、まともな霊を降ろせるわけはありません。ですから、そのおろした霊を審判する役割の人が必要です。その人を、審神者(さにわ)といいます。つまり、神を審判し、降ろした神のレベルを審判する役割の方です。この審神者(さにわ)の役割をする方は、相当な学問、知識、人生経験、判断力、が必要とされます。
かならず、神主は、審神者(さにわ)とペアを組んで、神霊をおろさなければなりません。神主だけでは、暴走してしまい、その神霊のレベルの良し悪しにかかわらず、一般の信者が信じてしまう危険があるからです。古代より、日本は、このように、霊とただしくつきあう方法を確立してきた、稀な技術をもった民族なのです。
こういう技術は、日本は間違いなく、世界でも群を抜いています。戦後、GHQが、こういう技術をもった神道を恐れるあまり、壊滅状態にさせる作戦をとった本当の理由は、こういうことです。
霊媒師がおろす霊の正体は神様そのものではありません。神様そのものをおろせる人というのは、おそらく、人類の歴史上でも、ほとんどいないのではないかとおもいます。そして、神様自身もそういう憑依することを嫌います。まず、この現実を知る必要があります。
それで、霊の正体は、人間です。つまり、過去の人間です。もっといえば、死人です。その死人のレベルにもいろいろあります。
高貴なレベルだと天皇家、皇族、学者、陰陽師、仙人、そして低俗なレベルだと、詐欺師です。その霊の正体をつきとめるには、わたくしの場合は、3〜4年かけます。もっと、早くつきとめられる方もいるのでしょうが、霊に関してまったく、その存在を霊的に感じることがないわたくしは、その霊に、質問を多数し、その回答を整理するという方法で、じっくりと、その正体をつきとめていくわけです。
1ヶ月に、1度だけ48時間、食事もしないで、連続でその霊と話します。それを、3〜4年くりかえします。そして、いったんは、その霊を心から信じます。しかし、だからといって、その霊のいうとおりに、行動はしません。いったん、その霊を信じてあげないと、霊も本音を出してこないからです。信じてあげると、だんだんと、本音をいいます。そして、だんだんと、心の奥底にある、闇の部分を出してきます。そうなったら、こっちの土俵です。どんどん、その闇の原因を、問いつめていきます。その問い詰めるプロセスで、その霊が、いつの時代の人間で、どのような家庭で生まれ、育ち、配偶者がどういう人で、どういう仕事をし、幸せだったのかどうかがわかってきます。
そういう霊の全容を知った上で、使える霊ならば、日本のために働いてもらいます。使えない霊ならば、さっさと黄泉の世界に戻ってもらいます。わたくしの経験では、ほとんどが、使えない霊です。
使える霊は、憑依などしません。だまって、わからないように、その人を背後から、守り、守っていることさえ、感じさせないように工夫するものです。でしゃばりの霊、○○天皇だとか、一生懸命にプレゼンテーションする霊は、実力のない霊です。
ここまで、読んでもう気づかれたと思います。霊も人間ですから、生きている人間と同じようにつきあえば良いだけです。生きている人間も、実力のある方は、必要以上に、自分を大きくみせることはありません。実力のない人ほど、うるさく、自己表現します。ただ、霊の場合は、肉体がないので、わかりにくいだけです。
わたくしの場合は、そういう経験をしてきましたので、霊現象をあたまから信じる人を見れば、哀れにしかみえません。そして、以前は、霊感をもった方が多く近づいてきましたが、最近はそういうこともなくなりました。霊の立場になってみれば、肉体をもった人間を、自由にコントロールできるから、霊は面白がって、寄ってくるわけです。憑依したとしても、まったく思うとおりに動いてくれない人間の場合は、霊もつまらないので、逃げていくわけです。
ですから、霊など信じないで、懸命に商売に頑張る人のほうが、成功します。かえって、霊などを信じて、それにふりまわされる人のほうが、大きな失敗をし、人生を棒に振ります。
くりかえしになりますが、霊はどんなに高貴であったとしても、しょせんは「死人」です。生きている人間のほうが、はるかに、尊く、価値があるのです。人間の肉体は、神様の最高傑作なのですから。肉体のない死人に、肉体のある人間が振り回されるのであれば、肉体をもって生きている価値がないというものです。
宗教では、無心が大切といいます。その通りです。では、本当になにもないのが良いのでしょうか?お金も欲しくありません。家庭も欲しくありません。おいしいものも欲しくありません。異性も求めません。友人も求めません。それでは、なんのために肉体をもっているのでしょうか?もし、それが無心の境地なら、いますぐ首をくくったほうがいいのかもしれません。
無とは、もともと空という意味です。空とは、いくら汲んでも汲みきれないすべての源のことを言います。空海もそういう意味で名前をつけました。ですから、次々の商品の企画がでてこなければ、無心の境地ではありません。次々とあたらしい生命があふれる仕事がわいてこなければ、無心ではありません。
色でいうと全ての色が混在している色ですから、一口に何色といえません。音楽でいうと、五線譜のすべてにバランスよく音が並んでいるので、音を特定することができません。性格でいうと、やるき、表現力、支配力、服従心、母性愛、すべてが備わっているので、特定することができません。こういう絶対的なバランス状態のことを無心というわけです。
特定することが困難なので、それに命名をすることができない状態のことを無心といいます。相手が善なる人であれば、善を受け入れ、相手が悪なる人であれば悪を受け入れ、相手がお金持ちであれば、それを認め、相手が貧乏であれば、それも認めるこういった状態のことをいいます。
良いものばかりを、えり好みする状態ではないのです。ものごとを細かく、細分化しないで、そのまますべてを受け入れて認めることです。自分の内なる声に耳をすまし、それに従うことです。
その結果、大金持ちになったとしても、そのお金の使い道で悩むことはありません。すでに、お金持ちになる前から、用途が明確だからです。その結果、お金がなくなっても、苦しむことはありません。それを、お金の使い方の学習と認めているからです。お金が1億できたら、喜び、お金を1000万損したから、悲しむそんな心の動きがなくなります。
世の中の人々より先に行こうという気持ちはありません。戦略を練りこざかしい知恵を回すこともありません。ただ、人として、誰も目をつけない、目の前にある小さな仕事を、コツコツやっていくだけです。何事も最初は、小さなエネルギーです。その小さなことをやっていくとやがては、大きくなっていくことがあります。大きくなっていくと、大きな会社が利益を得るために、参入してきます。そうなっても、小さなエネルギーを育ててきた人は、あわてることはありません。すでにその頃にも、自分も大きくなっているからです。
他社が参入するから、自分の会社もやるというのでは、永遠に心が安まるときはないでしょう。
人は人として、神の守られる位置を失わなければ神様が守ってくださる。ところが、人として神様が守ってくださる位置を失えば、ただちに、その守りを失います。この守りを絶たれることを、祟り といいます。