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西洋占星学と東洋占星学を歴史的観点から説明する   

 


あなたの知っている西洋占星学

あなたは、西洋(欧米)占星学を知っていますか?
もちろん『イエス』ですね。
今から50年前、その当時の日本の若い人たちに対して
「西洋占星学って何か知っていますか?」と問いただしら、
99%の人たちが「知りません」とか
「何のことか解りません」という答えが返ってきたことでしょう。

 のくらい西洋(欧米)占星学=『星占い』という占いは、
当時の日本人にはものめずらしく、なじみのうすい占いでした。

その証拠に、どの雑誌を開いても、新聞を開いても、
テレビを見ても、西洋占星学による占いコーナーは
まだ存在していなかったのです。

その知られていなかった西洋占星学を、誰もが知っている
現在の『星占い』へと変えていくきっかけを作ったのは、
1冊の単行本でした。

昭和41年に門馬寛明氏の著作『西洋占星術』(光文社刊)
が世に出てベストセラーとなったからです。

それまで日本人の誰もが知らなかった西洋占星学は、
一躍世間の注目を集め、右肩上がりで知られていく
占いへと変わったのでした。

実はその3,4年ほど前から、後に第一次占いブーム
と呼ばれるものが我が国には到来していました。

黄小娥氏の『易入門』、浅野八郎氏の『手相術』が、
それぞれ同じ光文社から刊行されていて、いずれも
超ベストセラーとなって話題になっていたからです。

その結果、光文社の『占いシリーズ』の第3弾として、
白羽の矢が立ったのが神秘性とわかりやすさとを備えた
『西洋占星術』という、まだ日本人にはなじみのうすい
占いだったわけです。

その後、ルネ・バンダール・ワタナベ、ルル・ラブア、
鏡リュウジなどの女性雑誌を中心に活動し、
人気を得ていく西洋占星術師が何人も輩出されるようになりました。

女性雑誌は、そのことごとくが『星占い』のコーナーを
常設するようになり、それは、やがて一般誌へも波及しました。

さらには、TVや新聞でも『星占い』を掲載するものが
多くなって、マスメディアの占いといえば『星占い』
でもあるかのように扱われることが多くなりました。

その結果、日本人で西洋占星学を知らない人はいなくなり
、自分自身の生年月日と同じような感覚で『自分の生まれ星座』を
言えるような国民へと変わっていったのです。

 

平安時代にも使われていた西洋占星学

ところが、西洋占星学の原型は、なんと今から
1100年以上も前に、すでに日本にもたらされていたものなのです。

ちょうど、空海などの遣唐使が活躍し、今の日本の文明の
基礎をつくった人たちが多く輩出された時代です。

正確に言うと、平安時代の貞観七年(西暦865年)、
唐から帰国した僧の宗叡(しゅうえい)によって、
ギリシャのプトレマイオスによる『テトラビブロス』という占星学原典の漢訳など
四書がもたらされていたのです。

平安時代というと今流行している安倍晴明などの
陰陽師が活躍した時代でもありますね。

そして、それらを元に、我が国でもすでに平安時代から、
ホロスコープに基づく西洋占星学的判断が宿曜師と
呼ばれる人たちによって行われていたのです。
その時代のホロスコープさえも現存しています。

ただ、日本における西洋占星学の時代は長く続かず、
鎌倉、室町、江戸、明治と完全に命脈が絶たれて、
忘れられた占いとなっていたのです。

日本に再び西洋占星学がよみがえったのは、大正3年
、1914年に隈本有尚(くまもとゆうしょう)氏が著した
『天文ニ依ル運勢予想術』によってです。

ただし、この本はやや難しかったのでほとんど売れず、
一般には普及しませんでした。

『占星学』でなく、『考星学』という名称が使われているのが興味深いところです。

 

中国で融合した西洋占星学

一方、平安時代に西洋占星学的文献をもたらしてくれた
中国では、『七政四余(しちせいしよ)』という名称
によって西洋占星学が中国化され、さらには
『子平(日本で言う四柱推命)』と組み合わせた
『星平会海(せいへいかいかい)』という複雑な占いへと変貌させていきました。

そればかりではなく、七政四余や星平会海を基本にして、
占星学を完璧に中国化した『紫微斗数(しびとすう)』と呼ぶ占いまで
新たに誕生させているのです。

これらもろもろの占星学が日本であまり流行しないのは、
生まれ時刻が判っていないと占いの精度が落ちてしまう
ということと、盤を出すプロセスが複雑で占うのに時間がかかるからです。

このように、東洋(中国)占星学は、中国や日本だけの地域
に限られる占星学ではなく、古今東西の占星学の集約
であり、各地域や時代のエッセンスがことごとく凝縮された占星学といえるのです。